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峩々の歴史

 

蔵王国定公園の真ん中にぽつりと1軒。他に建物も温泉も存在しない。そんな唯一の宿がここに存在するまでは多くの苦労があった。車もない、除雪も来ない、石油ストーブすらない閉ざされた厳冬期には積雪が3メートルを超える。外気は氷点下10度を下回る。そんな厳しい自然環境をイメージしていただければ、なお湯のありがたさに触れることができるでしょう。

 

 
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嘉永年間、山形県村山郡朴沢村 マタギの六治が熊野岳にかなり良質の硫黄が豊富に眠っていることに目を付け採掘に乗り出す。山中をくまなく歩いた結果、自噴する温泉を発見する。長年の作業で目を患ったが、湯の効能によって回復したと言う。年号が明治に変わり、戊辰戦争が起こる。時間の経過によって建物は荒廃し、修験者やマタギが山に入った際に野営する場所として使われていたため、一般人が立ち入るような事はなくなっていた。また、手負いの鹿が傷を癒やしていた事から「鹿の湯」と呼ばれていた。
 
明治8年、群馬県前橋出身の竹内時保(峩々温泉開祖)というものがいた。彼は北海道開拓使の黒田清隆の使節団の一員として北海道を目指していた。東北を北上している折に、仲間から蔵王の硫黄について聴かされた。黒田清隆の命を受け、この地に残った。政府の宿営地として、硫黄採掘現場の士気を高めるべく汗を流した。周囲から木を切り出し、建物を再建することに成功した。ベースキャンプ地としての「鹿の湯」はいつしか「峩々温泉」と呼ばれるようになった。その名の由来は「峩々≡切り立ってゴツゴツとした様子」を表す。正面の岩肌のそれを名前にしたのだと言われている。その後、正式な旅館としての営業を認可され、宿としての歴史がそこからスタートする。
 
蔵王は古くから修験者の修業の場として、一般人は入山することを許されなかった。江戸時代には許可されたが、五穀豊穣の祈願登山などで農民が山を登るようになったのは昭和に入ってからが一般的である。
 
峩々温泉も昭和に入り、本格的な湯治宿としての存在を確立する。農閑期を迎えた農民たちが馬を引き、あるいは徒歩で峩々を訪れた。厳しい労働によって疲れ果てた心身を峩々の湯が癒やした。当時は1ヶ月ほどの滞在が一般的であった。また、富裕層の避暑地としても重宝され麓の青根温泉には専属の籠屋や荷背負いがいたほどである。
 
参考文献:
・『宮城縣鑛泉史』 明治24年
・『仙南仙北温泉游記』 中村蓊 古峽社 大正5年